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ここでは主に当サイトの最新ニュースや、コラムを取り扱うブログですが、
まず手始めにどのようにアンドレーアを創り上げたのか、
それ以前に私(きたがわ)がなぜブラジルに関わったのか、備忘も兼ねて書いていきたいと思います。
『アンドレーア』の人生を彩る3名(加代・マリア・アンドレーア)は
元々、私が15歳の時ブラジル・パラナ州の州都クリチバ市に住んだ時に初めて作りました。
(なぜ主役のアンドレーアではなく加代が先かというと、キャラクターを作った順番によるものです)
まず自分自身のバックグラウンドからご説明しますと、
もともと私は1976年(昭和51年)東京都町田市に生まれました。
「大人になるまで町田にいるだろうな」と思っていたところ、
父の仕事をきっかけに中学三年生(14歳)の夏休みにブラジルのサンパウロ市に移り、
新しい人生を始めました。
居住当初のブラジルは、月30%のハイパーインフレーション、
デノミネーションにより通貨の呼び名が2度替わり
(クルゼイロCr$→1993年クルゼイロ・レアルCR$→1994年より現行レアルR$)、
街にはガソリンの代わりにアルコールで走る乗用車が溢れていました。
お金は世界の基軸通貨である「米ドル」で持って資産を守り、
必要なときにブラジルの通貨に両替するのが当然とされていました。
私がブラジルに住み始めた当時はインターネットが登場する前で、
日本の情報がリアルタイムで入手できなかった時代です。
その手段は新聞の「衛星版」と呼ばれる日本の新聞を外国で刷ったもの、
もしくはサンパウロの日系人向けに発行される日本語新聞からでした。
(現在はインターネットにより記事や動画を検索すれば
世界中どこからでも読めるため、その新聞もなくなりました)
日本語の漫画もなかなか簡単に手に入りません。
1990年代当時は週刊少年マガジンが船便で2か月かけてブラジルに送られ、
1月分(4冊)一気に読みました。
あとは親戚に頼んで雑誌や本・音楽CDを送ってもらうのもよくありました。
まずはサンパウロで4ヶ月だけ日本人学校(12月で卒業)で過ごし、
高校受験を経た後、日本に帰国するまで4年ほどサンパウロから400km南西に離れた
パラナ州の州都クリチバ市に住みました。
クリチバは「環境都市」として世界に名が知られており、その一環として
効率性を求めたバスの運行システムである「BRT」を世界で初めて実現した都市です。
ブラジル生活2年目に入り、クリチバという新しい環境の日常で何か楽しみを作ろうと考えたのが
「イラストを描いてみる」ことでした。
特に美術が好きだったわけでもなく、絵心なんてありません。
ゼロからのスタートです。
当時の週末はゲームセンターで遊んで過ごしており、日本からゲームソフトとゲーム雑誌を持ち込んでいました。
その雑誌は読者からの葉書によるイラストコーナーが非常に充実しており、それに触発されました。
最初は日本の漫画のように気に入った絵を見よう見まねで鉛筆を走らせたのですが、
いつしかモデルは実際に街で歩いている人間(ブラジル人)を観察して
身体や顔、髪型を見ながらパーツの位置を研究し、自分の絵に取り入れました。
理由は、日本のアニメのように「目を大きく」描くと人間の骨格上であり得ないこと。
そして漫画上で人物の心情や感情を示す漫符(まんぷ)という概念が日本独自のもので
ブラジル人でアニメファンでもない限り理解されなかったため、
それらを使わずに表現するのはどうすれば良いかも考えました。
まずは日本人の女性、西本加代を作りました。
そのブラジル人の友人としてマリアを作りました。
この時はまだ彼女達の設定や性格も決めていません。
大まかな容姿は出来ましたが、この二人を友人として繋ぐきっかけとして何かが必要でした。
当時は総勢10名ほどキャラクター(加代以外9名ブラジル人)を作ったのですが、
ブラジルらしさを出す要素として『サッカーが得意な人』を全く作っていませんでした。
自分はもともとサッカーとは無縁で知識がほとんどなく、
お付き合いしたブラジル人の友人にもサッカーをやっている方は誰一人いませんでした。
ご存知の通りサッカーは脚を使います。
『サッカーで鍛えられたキックが、とんでもなく強い子』として生まれたのがアンドレーアです。
それでも作った時は名前がありませんでした。(つづく)
このサイトでは、このサイトの主人公であるブラジル人少女「アンドレーア」をきっかけに、ブラジルや南米についてご興味をもらっていただきたくコラムを書いております。
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